こんにちは、晏藤滉子です。
本日で連続投稿1652回目のブログとなりました。
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身近な人間関係において「察してよ!」と思う事ありますよね。
友人、家族、職場など、言いたくても敢えて言えない。言ったらギクシャクするかも、いずれ分かってくれるだろうと黙っている内に、不思議と同じ場面に出くわしてしまう。した側は何とも思っていない、された側はストレスが溜まり「もう察してよ!」と爆発する。
それは双方の価値観が違うことから充分起こり得ること。
だから友人、パートナー間など他人→親密になるまでの通過儀礼ともいえるでしょう。
結論からいうと「察して」は不可能です。だってその人にとっての正義なのだから・・・恐らく不満に思っていることすら気づかない。「何だかご機嫌斜めだな・・・」くらいに思うくらい、自分が原因だなんて思いもしない。
巷でよく云われる「他者を変えたいならば自分の意識を変えるのみ」は確かに真理です。でもそれは誤解を招きやすいかもしれません。何故ならば、我慢したり‟良い人”になろうと無理をする人がとても多いから。つまり自分の価値観を不本意に捻じ曲げようとする解釈ミスを起こすものです。
自分を尊重出来ない人には、自分を蔑ろにする人が何故か集まるものです。
つまり「察して!」と叫びたくなるような人が次々寄って来る・・・それは滅茶苦茶イヤ! ですよね"(-""-)"
「察して!」の衝動が湧く時、そこには価値観の違いと共にコミュニケーションの欠乏が起こっているものです。つまり自分の「此処はこうしたいの」という意思を伝えられていないということです。伝えてもいないのに「察して!」は無理ですよね・・・ここでは相手を否定するよりも「自分はこうしたい。こうだったら嬉しい」を伝えることです。否定よりも要望を具体的に伝えることがポイントです。
ただ、その前に一度立ち止まって自分に問い掛けてみることも重要です。「相手の価値観」は受け入れられるか否かということ・・・「案外選択肢に入るかも」「経験のひとつとしてやってみてもいいかな」くらいに思えれば歩み寄ることもできるでしょう。
人間関係の距離感は自分で決められるものです。
もうダメならば別離や距離を置くことも可能です。少なくとも「察して!」と思ううちは膠着状態でしかありません。「親しくなりたいのに・・・」心の内でモヤモヤするならば、相手に伝える勇気も必要かもしれませんね。
今日も読んで下さってありがとうございます。 それではまた(^^)/
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