こんにちは、晏藤滉子です。
本日で連続投稿1426回目のブログとなりました(^^♪
つい相手の顔色をうかがってしまうことってありますよね。
性格というか幼少期の環境もあるかもしれません。私も結構そのタイプ。子供の頃はそりゃ顔色うかがってばかりでした。
子供ならば親や兄弟周囲の大人達に対して
大人になっても仕事関係者や、家族に対して
こう思っているだろうな、この人怒っているだろうな・・・と相手の感情を憶測で捉えあたかもそれが事実のように自分自身に影響を与えます。つまり妄想を勝手に決め込む自作自演ですよね。
でもそれって自分自身が疲れるわけです。だって他人の感情なんてエスパーでない限り読み取ることなんて出来ないし、まして相手の気持ちをコントロールすることなんて不可能です。
私も人と過ごすことが辛い時期がありました。その数時間は楽しくてもその後はどっと疲れてしまうことが分かるから。一人の時間が確保できないような関係性は苦痛でしかない。だから「私は人間嫌いなのかもしれない」と真剣に思っていました。単に考え過ぎなだけなのに・・・
でもね、ある時期「人の気持ちを妄想しても全く無駄なこと」と割り切ったことがありました。そのことによって自らのしがらみから解放されたような気がしています。
相手の気持ちは分からない。でも相手の立場にたって観ることはできる・・・ということ。似ているようで違う視点です。
例えば・・・仕事の上司との関係性で、「苛立っているだろうな」と憶測で委縮するのではなく、自分が上司の立場に立った上で、部下である自分を観ているイメージです。つまり上司の後ろにいる立ち位置で自分自身を眺めているということ。決して上司と同化することなく自分自身のフィルターを通して自分を観る。
ややこしい話ですが・・・「憶測の上司のご機嫌」と「上司の立場にたって観えたもの」は別物だと気づきます。顔色をうかがって他者に翻弄されることよりも卑屈にならない改善点が見えてくるものです。
顔色をうかがうこと自体、委縮している証です。
そのような場や関係性は窮屈で長居はしたくないもの。
相手の立場にたってみて、自分はどう見えているのだろう・・・
自分を俯瞰して眺めることで、意識を変えることは可能です。
勝手な妄想に翻弄されない・・・それだけでも人間関係はちょっとラクになると思うのです。
今日も読んで下さってありがとうございます。 どうぞご参考までに(^^)/