こんにちは、晏藤滉子です。
本日で連続投稿1524回目のブログとなりました(^^♪
今日は気づきの備忘録として、抽象的ですが悪しからずです('◇')ゞ
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普通に生活していると多種多様な情報が私の中に流れ込んでくるものです。好むと好まざるに関わらずですよね。テレビを付ければ誰かが何かを知っているかのようにコメントしているし、snsでは喧々諤々主張し合っている。分からないことがあってもグーグル先生に聞けば即答してくれる。ひと昔前のように分厚い辞典を広げたり調べものをするなんてありません、とても便利な世の中です。
だからこそ誰もが「自分は何でも知っている」という錯覚に陥りがちです。
でも・・・当然のことながらそれは情報を知っているだけであって、分かっていないことが殆どです。何故なら経験していないから。勿論人間の身体は一つだし全てリアルに経験するなんて土台無理な話です。それに経験してれば偉いのか?分かっているのか?・・・と言われるとそうでない場合もあるのです。でも情報として知っている人よりも経験した人はリアルな感情を体感しているのは確かです。まして経験することで何かしら得たものはあるはずです。それが思い出したくもない苦しみや痛みであったとしても・・・。
だから経験を通した人の言葉や行動は深くて濃いものとなるのでしょう。
知っているだけであっても「分かろう」と努める人は存在します。人間は相手の想いを理解しようと能動的に動くことが可能です。実際相手の思うことを理解することなんて不可能、でもその上で思いを馳せようと歩み寄ろうとする。そのような在り方は「知っている人」ではなく「分かっている人」の範疇だと思うのです。
一般論として知っている人or分かっている人・・・もしも心の内を開示して話し合うならばやはり「分かっている人」を相手にしたい。結局人間は安心安全と認識しなければ心を開くことも本音も明かさないものです。どちらの人か・・・もしも目の前にいれば直ぐ分かるものですよね。その人の眼差し、言葉の選び方、話すトーン・・・この人はどちらの人なのか本能で判別できる。
知っている人は批判する・・・
分かっている人は真摯に耳を傾ける・・・
そこには大きな在り方の違いが在ると思うのです。
今日も読んで下さってありがとうございます。 それではまた(^^)/