こんにちは、晏藤滉子です。
本日で連続投稿1167回目のブログとなりました。
今日は「変態性ノススメ」について共有いたしましょう。
‟変態”というと特殊な世界を想像してしまうかもしれませんね。
でも変態って案外身近なものです。秘密の癖のようなものではなく、見聞きした時に
「えー、それあり得ない」「考えられない」とつい心の中で呟いてしまうようなこと。
周囲を見回してもそんな人いませんか?
筋トレしていてプロテインとムネ肉ばっかり食べてる人
丸一日家に籠ってゲームしている人
推しを追いかけて日本中追いかけてる人
サウナに一日10回も入っている人(→ワタシです(^^))
自分にとって関心のないことならば、ハッキリ言って「ヘンタイ!」。引いてしまう存在かもしれません。私がサウナに夢中とは友人の中でも数人しか知らないこと。「引かれる」ことが想像できる場合には敢えて伝えることはありません。変態性があるからと言って、周囲を傷つける訳でも罪を犯している訳でもない。一部の法に触れるような行為は別として、あくまでも個人の中で完結するような変態性に罪はありません。
誰かに「ヘンタイ!」とレッテルを張るのは何故なんだろう。
単純にいえば・・・自分の世界の中ではあり得ないことだから。自分の世界の常識に忠実で在るあまり、それ以外のものが異物でしかない。または偏った想像を膨らましている。もしかしたらその件に関して嫌悪感を感じるような経験や思い込みを持っている場合もあり得ます。
子供の頃からインドア派ならば、ガチなアウトドアはカルチャーショックだし、
筋トレ大好き人間は全員がナルシストと妄想していたり、
現実世界から逃げるためにゲームにのめり込んでると勝手にレッテルを張ったり、
子供の頃家人が趣味に嵌って家族旅行すらしなかった・・・
変態性を表す人がヘンタイではなくて、変態という色眼鏡でその人を観るからヘンタイになると思うのです。ある意味自分の概念信念を通したジャッジのようなもの。
人にはそれぞれ価値観があるので善悪というものではありません。
でも、もしも身近な人が変態性を発揮している時、いつもと視点を変えてみることが大切かもしれません。というのは自分の殻を破る、自分の世界を広げる時には「衝撃的な経験」は必要になるものです。ショックな部分がなくては安住の心地の良い世界に居続けることになるでしょうから。安全な分世界は次第に澱み縮小していく。だからこそ身近な人が嵌っている世界を覗いてみるのもひとつの手です。家人がアイドルに嵌っていたならば、自分もライブに行ってみる。嫌いなアウトドアに一緒に行ってみる。一日ゲームしてみる。筋トレメインのジムにビジターで参加してみる等々・・・
それは相手に歩みよるといった類のことではありません。それを経験したことによってのみ、正当な評価を下すことができるもの。それは善悪ではなく「案外面白いな」「やっぱり楽しくない」という経験からくる自己評価。経験によってのみ確認できることが自分にとっての真実だと思うのです。
自分の世界の壁を壊すときは、頭の中だけでは妄想に過ぎません。頭の中の絵空事に色を付け、立体的に立ち上げるには・・・やはり経験しかないと思うのです。対象の良し悪しを経験によって確認していく。その積み重ねこそ人生を豊かに面白くさせていくコツなのかもしれませんね(^^)/。
今日も読んで下さってありがとうございます。 ご参考までに(^^)/