星読み・数読み・ジブン読み

晏藤滉子(アンドウ ヒロコ)です。心理学をベースに、西洋占星術と潜在数秘術で「意識の錬金術」を

「子供処世術」を侮るな!

     

 

こんにちは、晏藤滉子です。

本日で連続投稿1210回目のブログとなりました。

 

今日は個人的な呟きですので悪しからずです。

 

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今日は雨の一日。久しぶり子供の頃を思い出した。

 

小学生になった頃から、私は‟日記”というものを書き始めた。

当時交換日記とか流行り始めた頃で、友達とつるむことが苦手だった私は「個人日記」からのスタート。書くことが苦手だったにも関わらず日記は大人になるまで続く習慣となった。

 

書くことは学校のこと、友人のこと、自分の想いなど極々日常的なこと。書く量にしてもたった一言・・・「今日は何も書きたくない」で終わることだってある。肩に力の入らぬ毎日の習慣・・・でも小学4年生くらいの頃かな、ふと違和感を感じた。

 

それは「誰かがこの日記を見ている」ということ。

動物的勘というか、日記帳の隠し場所の‟引き出しの奥”に誰かが触れたような気配がした。確証までいかなくても子供の勘は侮れない。ただそれを誰かに言ってはいけないと感じていた。

 

でもね・・・子供がそう感じる場合、その盗み見犯は残念ながら「親」なのだ。

子供が何を考えているのか分からない。誰と付き合っているんだろう・・・学校は?友人は?。結果直接聞くよりも日記を見てしまおう。そんな安直な理由なのかもしれない。

確かに我が家は両親ともに管理を好むタイプ。親として子供を把握できないことは許せないのだろう。

 

恐らく学校へ行っている間コッソリ部屋に入り、引き出しの奥の日記帳を見ているのだろう。そして証拠隠滅をして部屋を去る様子を想像すると何だか怒るというよりも、もっと静かで諦めに似た境地だった。

 

「しょうがないな・・・」

 

子供は親から家族から基本護られて生きている。子供はしっかりと自分の意志を表現できるまで、護られる存在でいたいと思うし、保護者の憂うようなことは敢えてしたくない。少なくとも私自身がそういうタイプだったのだろう。

 

私が選択したことは、親が安心するような日記をそれは綺麗に書いたこと。全く子供らしくない、忖度満々の表日記を書き始めた。今から思うとそれは決して良い方法ではないと分かっている。でも子供ながらに「それしかない」と思い込んでいたのだろう。

 

からしたら特に深い意図はなく、管理のつもりだったのかもしれない。

大人からみたら子供は未熟、何とかより良い方へ指導しなくてはいけないとも思っているのかもしれない。

 

でも子供って本当に未熟なんだろうか?

 

確かに「生きていく為の智慧」「経験」に関しては子供は発展途上。たどたどしい所が目立っているのかもしれない。でもそれが必ずしも未熟な存在という訳ではないと思う。子供ながらの感性や、順応性など大人よりも鋭いと思うことがある。ただ泣いているように見せて周囲の空気を読んでいたり、親の内的変化を敏感に感じ取ったり・・・「子供の処世術」をちゃんと身に着けている。

 

大人が社会に出て戦うように、子供も自分の世界で戦っているのかもしれない。それは子供ながらに自分の尊厳を守るため、きっと本人も気づかない無意識下のことだろう。

 

子供の処世術を見くびってはいけない・・・。