こんにちは、晏藤滉子です。
本日で連続投稿1200回目のブログとなりました(^^♪
今日はふと「本音は尊い」ということを共有したくなりました。
身近な人間関係って、その人の心の叫びを引き出すような関係性になりがちです。自分の本心本音でさえ自分でも分からなくなっていることが多いもの。本音を押さえつけ誤魔化して体裁の良いものに上書きして・・・いい大人になる頃には、本音の原型を留めていないことが殆どです。
だからこそ、本音を絶叫させるようなシチュエーションを現実に用意する。それは自分の原型(本音)を蔑ろにしてきた人こそ「激しい現実」を目の当たりにするでしょう。
だって、人間苦しくて悲しくなるほど・・・堪えきれず本音を叫ぶものだから。
例えば、親と子の関係では・・・
そのままの自分で認めてほしかった
私をみて温かく微笑んで欲しかった
一見他愛のないような事を求めるものです。「私を見て!」というシンプルで原始的な欲求です。身近な人間関係において何らかのトラブルが生じる時は大抵「相手を見ていない」「視線を合わせない」ことから生じるものです。愛の反対は無視・・・正にそのとおり。無視されることは人間の尊厳を奪うものです。そのような相手とは健全な関係は築けないものだと思うのです。
親から見守ってほしい、愛する人から優しい眼差しがほしい・・・大切な関係性であるほど、「私をちゃんと見て!」と望むのでしょう。
とは言っても、それを相手に望んだとしても他者をコントロールすることになる。結果思い通りにならないジレンマを抱えてしまうことになりかねません。
それじゃ、どうしたらいいの?ですよね。
それもシンプルなことです。私がして欲しかったことを相手にしてあげる。取り繕ったダミーの姿ではなく、先ず相手の本当の姿をちゃんと見ることです。凹凸も含めてしっかりと。そうすると不思議なことですが、相手も私の事を直視しようとするものです。
「私をみて!」
無視することなく相手を見つめる時、そこでやっと「愛」というものが登場するのかもしれませんね。
今日も読んで下さってありがとうございます。 それではまた(^^)/