こんにちは、晏藤滉子です。
連続投稿899日目のブログとなりました。
今日のテーマは「正しさの罪」について共有いたしましょう。
正義とか正しさって、子供の頃から耳にするワードです。
昔ばなしでも、戦隊ヒーローものでも正義の味方は必須だし、ストーリー性も上がるものです。つまり分かり易いということ。子供だったら大抵正義側に傾倒することが多いと思うのです。そして学校に入る頃には、集団としての正しさや正義が一般論として認識される。昔の道徳の教科書なんて「正しく生きる見本帖」のようなものですから。
でも、多くの人は実際生きていく上で「現実はそうもいかない場合もある」「人間だもの」と正義とは逆の在り方も内心理解するようになるものです。
陰と陽、悪と正義、グレーな部分が世の中にはあると気づいていく・・・。
それは、時代によって立場によって環境によって「正しさの定義」は全然違うという矛盾に気づくということでもあるのです。
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正しさが暴力になる時があります。
相手が反論できないような、ぐうの音も出ないような「正義の言葉」を押し付ける時があります。上司から部下へ、親から子へ、持つ者から持たざる者へ・・・「あなたの為を思って」「大切な人だから」という大義名分の付く正義の言葉(アドバイス)。
受け取る側の部下、子供、持たざる者・・・それを納得して有難く思う時もありますが、押し黙りがちに。だって相手の言葉は全て正しいのだから、疑問の余地もない。逆にそれを口に出したら自分が「悪」になってしまう。だから貝になって心を閉ざしてしまうのかもしれません。同時に正義の言葉は見事にスルーしてしまうことでしょう。
正しさが暴力になるのか、協力になるのか・・・その差は発信側と受信側の信頼関係が大きなカギを握ります。発信側が抑え込むのではなく、その問題を越える力が相手にあると信頼することが出来るか否かです。例え受け取る側が子供であっても、その区別は付けられるものです。その時点では分からなくても、後々になって「その時見えなかったメッセージ」を受け取ることもあり得るのです。
「私の言ってることは間違いない」
「私の云う通りにしてれば上手くいく」
弱った時に訊いたら頼もしい、力強い言葉です。
相手を牽引する言葉ですから・・・
でもそれは諸刃の剣。正しい言葉が暴力に変容することは容易に想像できるものです。場合によっては、それが暴力とは気づかないこともあります。共依存だったり、完全に支配下に入っている時です。
正しい言葉の暴力は、管理をする為のもの。
もしもあなたが「それって本当?」とか、「聞いていてムカッとする」ならば、ある意味管理や支配に風穴があいた証です。
正しい言葉の呪縛から逃れるのは・・・やはり自分自身の気づきでしかないと思うのです。気づきさえすれば・・・相手のコントロールからは確実に外れるのですから。
今日も読んで下さってありがとうございます。 ご参考までに(^^)/