こんにちは、晏藤滉子です。
今日は「察して欲しい女」から脱した経験談を元にシェアいたしましょう。
「察して欲しい女」の定義
「察して欲しい女」というと特別感ありそうですが、結構身近な存在です。
文字通り周囲に対して「敢えて言わないけれど分かってくれるよね」と求める生き方。
昭和の世代の女性では多かったのでは。ある意味“モテキャラ”だと思います。
控えめで自己主張をせず、周囲にに従属して生きていくタイプです。
当時「察して欲しい」は男女ともに、処世術なのかもしれません。
その場の環境に順応する生き方だし、何より人間関係では摩擦が少ない。
そうは言っても、この「察して欲しい生き方」は今の時代では「生き辛い」のではないでしょうか。
「察して欲しい女」の本音
実は私の母は典型的な「察して欲しい女」でした。
そして私自身も子供の頃から同じく「察して族」。
手のかからない、でも面倒くさい子供だったと思います。
これが欲しい、嫌いとか自分で言わない。でも心の中では周囲に求めている。
「きっと分かってくれるよね」と・・・。
その生き方は矛盾に満ちているのは確かです。人の考えをコントロールすることは出来ないし、「察してくれない場合」が殆どと内心では分かっている筈だから。察するどころか無視されることだってある。
私の母も分かっていたと思います。でも、母はその生き方を変える事はしなかった。それを母に問う事は出来ないけれど、きっとこんな風に答えると思います。
「本当に欲しいものを伝える術を知らなかった。正直に伝えたら私は嫌われるはず」
これは「察して欲しい女」を捨てる前の私の概念でした。
本心を正直に伝えたら、嫌われる・軽蔑される・拒否される気がする。
そんな思い込みに支配されていたようです。
だから、自分の言葉で伝える事を放棄して、察して貰う事に誘導する。
今から思うと「自分で伝える」よりもずっと難易度高いですよね。
伝えることは自由を取り戻す事だった
私が「察して欲しい女」を捨てる流れは必然でした。
自分の言葉で周囲に伝えなければ何も始まらないと腹をくくったから。
「察して欲しい女」を捨てる事は、ちょっとの勇気は必要でした。
ぎこちなかったと思うし、小さい声しか出せなかったり。
ただ「察して欲しい女」を捨てた代わりに、私は「自由」を手に入れました。
本心を伝え、表現する自由。
今まで想像していた「嫌われる」妄想は現実に起らなかった。
慣れてくると伝え方もスムーズになり周囲と本当の意味で共感できる。
例え断られたって、相手の都合と受け入れられる。自分軸で生きる余裕かもしれません。
そんな自由を体感すると・・・以前の「察して欲しい女」には戻れませんよね。
本心を伝える事は、自分を表明することです。
「生き辛さ」から「生きやすさ」に変換する大切なキーワード。
本心を相手に委ねていては、真の自由は遠くなるものです。
今日も読んで下さってありがとうございます。ご参考までに(^^)