こんにちは、晏藤滉子です。
今日は「自分と繋がる人を選ぶことの大切さ」をテーマに共有いたしましょう。
***
「周囲の自分に対する見方=評価」ともいえます。
同じ人でも、見る側によってその評価は変わります。
同じ人なのに、「人格者」といわれ、一方では「冷酷な人」と云われることだってあります。つまり、見る側のフィルターを通して「その人」の評価は決まっていくものす。
対して、「自分自身」も相手によってキャラを無意識に変えていきます。会社の同僚と上司に対する言動が違うように・・・これはある意味生きていく為の知恵でもあるのです。
自分のフィルターを通して言動が変わる
見る側のフィルターを通して評価が変わる
「いい人」も「サイテーな人」も同じ人の中で同居しているのが現実なのかもしれません。
結局、本性とは、曖昧で移ろい易く「コレ!」という決定打がありません。
***
「見る側が決める自分の評価」
これは本人からしたら気になるところです。人間関係に決定打を与えかねません。年頃だったら「モテ」に関わることですから、そりゃ真剣です。
つい誰にでもいい顔をしてしまったり、見栄を張ったりしてしまう。
でも先述のように、いくら好印象を掴みたいと思っても、
見る側のフィルター次第で、評価は変わってしまう。
私を「素敵」と認めて!
私を「有能な人間」と見て!
そんな自己承認欲求に誰もが少なからず振り回されるものです。
でも、そう匂わせる言動をしたところで「見る側」のフィルターはビクともしません。
見たいように見る仕組みだから・・・。
操作は不可と思って間違いない(洗脳はある意味操作です)
でも、ひとつだけ自分が主導権をとれることがあります。
それは「どんな見方の人と繋がるのか」・・・それは自分次第ということです。
お前は無能だ!と決めつけている人と繋がるのか
お前、なかなかやるじゃん!と見なしている人と繋がるのか
自分がどんな場に身を置くのか・・・雲泥の差が生まれるのです。
そうは言っても、人間ってつい頑張ってしまう生き物かもしれません。
「お前は無能!」と云われ、「じゃあ、頑張って認めてもらおう!」と努力する。
でも、そういう場に長くいると、心がマヒして冷静な判断が出来なくなる。身体だって悲鳴を上げてしまいがち。終いには「やっぱり無能なんだ」と自分を卑下してしまうものです。
同じ頑張りでも、努力でも、どんな人と繋がるかで世界は変わるもの。努力の先に「笑っている未来の自分」が見えるのなら・・・そこは安住の場所だと思うのです。
どんな人と繋がるのか・・・主導権は自分です。
今日も読んで下さってありがとうございます。 ご参考までに(^^)/