こんにちは、晏藤滉子です。
今日は独り言ですので悪しからず('◇')ゞ
最近友人との会話から、「嫌いなTV番組」を何気に思い出しました。
それは「討論番組」。
30年以上昔、朝まで政治の時事テーマで討論するという番組がありました。
その番組がどうにも好きではない。今から思うと、その番組に対してではなく「討論中」のあの空気感がどうも苦手だったと思います。だからなのか国会中継も苦手です。
それは多分、「自分の正義を貫く戦い」だから。
自分の正義を主張するのは、ある意味当然だけれど、
あくまでも討論しているフリを装って、自分の正義を押し通そうとする姿しか見えてこない。
相手の言っていることを聞いていないのは、傍から見ても明らかです。
その上で、「自分の主張」を大きな声で押し付ける行為がどうしても馴染めない。言論のキャッチボールとは遠いように感じてしまうのです。
次第に声を荒げ、正当性を訴えてもギャラリーからは「喧嘩」にしかみえません。まるで、スーパーで駄々をこねてひっくり返っている子供のよう。
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日本人は「自己主張」が苦手な民族かもしれません。
子供の頃から、強く自己主張するよりも、協調性を求められてきたから。
義務教育においても、ある意味「出る杭は疎んじられる」傾向がありました。
だから「自分の主張」をする機会はなかなか訪れない。
慣れていないから、喧嘩腰になって論破しようとする。
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私達が海外へ旅行にいく、留学しようとする時、
向かう先の言葉、文化、食べ物、習慣など、あらゆる情報を得ようとします。
言葉が流暢にできなくても、「ありがとう」だけは頭の片隅に。
少なくとも身振り手振りで伝える努力はするものです。
そして、それが通じた時は嬉しい経験です。
また、外国人が日本に来た時、片言の日本語でも一生懸命理解しようと頑張ります。お互いの意図を理解しようとする努力がそこにあるものです。
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当ブログにおいても、「自分を理解すること」はメインテーマ。
世間に向けた「顔」ではなく、「本当の自分の顔」を探れるのは自分だけ。
「自分を理解すること」を突き詰めれば、「他者を理解しようとする」ことに繋がります。
理解というより、尊重ということでしょうか。
勝ち負けではない、相互理解の世界。
違っていて当たり前。だから理解しようと努力する。
相手のことを知りたい、理解したいという気持ちは「闘い」には繋がりません。確かに、宗教や思想的なもので「相容れない状況」は現実としてはあり得ます。
とは言っても多くの場合、「相手を知りたい」という姿勢は、戦いを回避できるものと信じています。
圧の押し付け合いではない「討論」は、夢物語ではない理想です。
「自己理解は、相互理解に通じる」
家族のような小さなコミュニケーションにも必須なことだと思うのです。
今日も読んで下さってありがとうございます。 それではまた(^^)/