心理学を学び始めた頃、苦手なことがありました。
それは、ワーク・トレーニングをグループで行う時、
そこから得た体感、経験などをお互いにシェアするということ。
当時はこれが何より苦手で
まだ、言葉で表現することがぎこちなく
超人見知りなため「初対面の人」に自分の体験を語ることなんて・・・・
自分のことを話すこと自体に
「ジャッジを受けるはず」
「どうせ理解されっこない」という前提が私にはあったようです。
もともと感覚優位なので、心理的ワークの感覚を掴むのはあまり苦労はしなかったけれど、その後のシェアは苦手というか好きではない。
でもね、ある時気付いたんです。
「シェア=発表・分かち合う」というイメージをどこかでもっていた頃
自己開示は苦手なことでした。目の前の人が審査員に見えていたから。
けれど、経験って誰ひとつとして同じことなんてなく
似たような経験はあっても同じことは経験出来ません。
もしも「その人の経験=神様・宇宙からのギフト」としたならば・・・
神様とか宇宙とか怪しい響かもしれないけれど
人生の流れを司る大きな何かからのギフトのイメージ。
人間は分かち合うことから意識の拡大がおこります。
独り占めしよう。出さないでおこうと思う時から意識の縮小が起こり
水は停滞し澱んでいきます。
だから
「シェアすること=自分が受け取ったギフト(経験)を次の人に託すこと」
ギフトには経験した本人の感情や想いがラッピングとして施されています。
そのギフトを他者に託すことによって経験を昇華させていきます。
シェアするという機会があるということは相互にとってベストなタイミングである筈です。
けれど「ジャッジされた」と感じる場面があるのなら
それは相手の「前提・思い込み」の問題です。
そのことからも、シェアを含めた自己開示というのは「安心安全な場所」でなくては傷つく危険性も確かにあります。
コアな繋がりで経験を安心してシェアできること・・・
そんな場を創りたいと考えています。